個人の歴史が人類の歴史の一部であり、個人がどんなに老いて孤独となろうとも、人類を止められない限り、その歴史を引き受けざるを得ない。
ジョージア人として、人生も残り少なくなった今、旧ソ連時代の過去をどう受け止めるのか? 対照的な立場にあった二人のお婆ちゃんと、一人のお爺ちゃんの物語、、、
ジョージア人として、人生も残り少なくなった今、旧ソ連時代の過去をどう受け止めるのか? 対照的な立場にあった二人のお婆ちゃんと、一人のお爺ちゃんの物語、、、
本日は岩波ホールで、ジョージア映画『金の糸』(フランスとの合作)を観賞です。
老いることで色んなことが不自由になって、しかし、過去の記憶だけは様々なことに触発されて、あっちにこっちにとヨミガエリ。
映画の冒頭言及されるプルーストの『失われた時を求めて』の如く。
プルーストはこれを緻密な豊かな描写で、壮大な絵巻物に仕立てあげていますが、今作は、タイトルの『金の糸』、つまりは日本の金継ぎのように、バラバラの過去の破片を継ぎ合わせ、忌まわしい破片であろうと、その金継ぎされた陶器のようなものこそ今の自分を形作った財産であると、主人公のお婆ちゃんは信じ、そこから魂の解放を目指します。
一方、もう一人のお婆ちゃんは、、、なんか、悲しいねー。
そして、孫なのかなー。十歳ぐらいの女の子が本当に可愛い。
この子もいずれや、お婆ちゃんみたいに過去を振り返るときが来るでしょうが、政治や社会情勢が忌まわしき過去をもたらさないよう、切に願うばかりでありまする。