『囚われの女』、、、もう、お分かりですね。プルーストの『失われたときを求めて』、岩波文庫新訳全14巻で云うところの10巻と11巻に当たる部分です。
アケルマン監督はその物語を、百年後の現代に移し展開します。プルーストの時代は珍しかった車や電話(文中たびたび登場します)といった文明機器も、もちろん現代仕様。そして、物語そのものも、プルーストのエッセンスを損なうことなく、独自の展開をみせ。
イヤー、素晴らしかったな。特にね、この匂い立つような感じ。ルコントの『仕立て屋の恋』以来の、視覚だけでなく嗅覚にまで訴えてきそうな感じ。
何もね、目に映るあれこれを云ってんじゃなくて、物語の主要テーマである「嫉妬」、この主人公が囚われ、よって恋人アルベルチーヌが‘’囚われの女‘’となってしまう、この嫉妬までが、画面を通して漂ってきそうなのです。
二人が出会うノルマンディーの海辺。この『花咲く乙女たちのかげに』の部分が、巧く冒頭に8ミリとしてまとめられ、溢れる恋人の笑顔は過去のものとして提示され、そして、‘’幽閉‘’された現在のあれやこれや。最後は原作を大きく飛び越え、笑顔だけでなく、彼女の存在そのものが、初めて出会った海辺の向こうに消えていくという。
繰り返すけど、イヤー、ほんと良かった。素晴らしかった。プルーストの示す溢れるイマジネーションの世界って、ほんと映像作家を刺激して止まないんだろうね。
今作同様、ある程度原作を借りてそのまんまのタイトルで映画化されたのも、例えばドイツのシュレンドルフの『スワンの恋』なんかがあるけど、一寸したイメージに影響されたのは、それこそ多々あるんだろね。
ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』なんかも、もちろん原作はトーマス・マンだけど、あの主人公の美少年を追いかけ、汗で化粧が剥がれ落ちていく感じは、プルーストが造り出したシャルルュス男爵が無かったら、ああまでの真に迫ったものにはならなかったろうし、ジャック・ロジェの『アデュー・フィリピーヌ』も、『花咲く乙女たちのかげに』が無かったら、あの内容もこのタイトルも生まれなかったんじゃないのかな。
と、長くなってしまいました。
もう一本のセルフポートレイトみたいな作品、特にコメントはありませぬ。