店主は気まま、客は我がまま。そんな気楽な銀座のBAR。でも、それでいいんじゃないの?

『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』

渋谷のユーロスペースで昨日から始まりました、ドイツはウルリケ・オッティンガーって人の特集、ベルリン三部作(まだ西ドイツ時代)。
このオッティンガーが男性か女性か、それさえ知らないぐらいの全くの無知の状態で臨みます本日は、三部作のうち『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』(83) を観賞です。

ワイルドが産み出したドリアンは、悪魔に魂を売ってでも絶対的な美を追求する芸術の象徴であり。
ラングの産み出したマブゼ博士は、人の奥底に潜む狂気を現出させ、不謹慎かもしれませぬが、それを芸術的表現にまで高め。

と、今作のデルフィーヌ・セイリグ(相変わらずの存在感)扮する女マブゼ博士は、ドリアンを芸術とは対局にある大衆の“醸造所“とも云えるマスメディアにさらけ出し、人の狂気ではなく好奇の感情を満足させようとするのです。

あー、何言ってんだろ。よく分かりませんよね。僕もうまく説明できませぬ。
例えば、上野でマティス展やってて、マティスそのものは当たり前だけど素晴らしいにも関わらず、多くの人の目に触れ、それら多くの人の口の端にのぼった時点で俗物に成り下がってしまう、そんな感じ。

僕をはじめスクリーンの前に陣どる多くの人々は、そんな俗物に貶められようとするドリアンを目の当たりにします。
しかしですよ、そんな俗物礼賛のこの映画そのものが、あまりにも芸術的すぎるのです。
手作り感満載の、そしてバウハウスの如き計算され尽くした数々の表現に引き込まれてしまうのです。

そしてラスト、よくやった、ドリアンよ。
鶏の如き、何処にでも顔を突っ込んで、コッコッコッコッ、うるさい大衆を一掃し、、、あー、色んな意味で疲労困憊の映画なのでありました。