あの名作『木靴の木』のオルミ監督が、ヨーゼフ・ロートの小説を映画化した『聖なる酔っぱらいの伝説』を観たときに、原作を読んでいたとはいえ、こんなに酒を飲み続けて酩酊覚めることなき主人公はそうそうはないのではないか、と思っていたところてん、ここにもいましたよ、いや、それ以上のアル中女がね。
ギリシャ哲学の誰かの言葉に、人は食べるために生きるにあらず、生きるために食べるなり、ってあるけど。
飲食でも、その“食“と違って“飲“、つまり酒ってもんは、なんら人生の糧とはならず。
パンナム航空の飛行機でベルリンに降り立った、結果アル中となる女は、人生のすべてを、そんな酒に捧げるのです。
彼女の衣装をはじめ画面を彩る目眩く色彩、美の奔流よ。オー・ド・ヴィ、命の水が蒸留器からほとばしる如く。
これを樽で熟成させれば彼女の好物ブランデーの出来上がり。
なぜ、ここまでに飲まなければならないのか。それは誰にも分からぬ。
社会、道徳への反発か。それなら只のパンクで終わってしまう。
ここはドイツ。ドイツ哲学、実存主義。
そう、酒は彼女の実存そのものを表すのではなかろうか。
前回観賞の『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』は、“大衆“なるものへの批判に満ちていたと思うんですが。
そんなメディア、コマーシャリズムもろもろが産み出した大衆社会での没個性、自己喪失。私って何なの、、、
だから酒なのよ。
飲んで飲んで飲み続けて。
力尽きた彼女は駅階段に寝転び。
と、アッという間に溢れる利用客に覆われ見えなくなってしまう。
まさしく、安部公房原作脚本、勅使河原宏監督作品『他人の顔』のあのラスト、のっぺらぼうが溢れかえる場面。
大衆とはまさしくのっぺらぼうの集団。
アル中女の唯一無二、琥珀色の輝きよ。